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2017年8月10日放送のカンブリア宮殿は「プロ料理人も食品メーカーも大絶賛!変化を恐れず挑戦する老舗・醤油メーカーのサバイバル術」と題してヤマサ醤油 会長 濱口 道雄(はまぐち みちお)氏が登場します。
うなぎの名店「野田岩」や日本料理界で一目を置かれる「分とく山」など…多くの飲食店で使用され、料理人からの絶大な信頼を勝ち取ってきた、ヤマサ醤油 。
実は、醤油の消費量が右肩下がりを続ける業界にありながら、順調に売り上げを伸ばし続けている。その成長の秘密こそ、創業372年の歴史の中で培ってきた「変化を恐れず挑戦する」姿勢にあった。逆境の中でも果敢に挑戦するヤマサ醤油 のサバイバル術の全貌に迫る!
縮小市場でも成長を実現。老舗企業の驚きサバイバル術
飲食店や食品メーカーから愛されるヤマサの醤油
北海道で大人気のなごやか亭。ピーク時は1時間待ちが当たり前のお店。海の幸が豊富な北海道とあってどのネタも新鮮でボリュームたっぷり。ネタの良さをさらに引き出すために使っているのが…ヤマサ醤油である。
ヤマサ醤油を使うのは、お寿司屋さんだけではない。東京広尾にある分とく山 本店。ミシュランの2つ星をもつ日本料理の名店中の名店である。この名店でも40年使い続けているのがヤマサ醤油 である。
ヤマサ醤油 は関東の和食店では52.9%、東京の寿司店では68.8%にものぼるという。それほどプロが認める醤油なのである。
さらに食品メーカーもヤマサ醤油 を頼りにしている。例えば、有名焼肉店の叙々苑のタレにもヤマサ醤油 が疲れている。さらに、ご飯のお供として有名な丸美屋ののりたまにもヤマサ醤油が使われている。そして、亀田製菓が醤油にこだわった揚一番にもヤマサ醤油が使われている。
ヤマサ醤油の商品開発
ヤマサ醤油の本社があるのは千葉県銚子市。その作り方を見てみると…
まず大豆・小麦・麹菌を混ぜ合わせ、麹を作る。この麹菌が醤油づくりで醤油の味を決める重要な要素となっている。ヤマサが使っているのは、創業以来370年以上守ってきたヤマサ菌という特別な菌である。さらにもろみを6ヶ月間の間発酵させる。ヤマサ菌が酵素を生み出してもろみを発酵させる。
ヤマサ醤油は創業正保2年(1645年)。和歌山の商人だった先祖が銚子で醤油づくりだった。そちに江戸では寿司や天ぷらなどの食文化が進んでいき、ヤマサ醤油の事業も大きくなっていった。ちなみに、ヤマサ醤油のロゴマークの右上に入っている”上”のマークは江戸幕府から高い品質を認められた証拠である。
そんな伝統のヤマサ醤油は革新に挑み続けてきた歴史を持つ。例えば、1877年に日本で初めてソースの製造・販売を開始した。そして、1997年にストレートつゆのペットボトル化したのもヤマサ醤油が最初である。
決して派手ではないが、日本の食文化に影響を与えてきた歴史は現在の事業にも継承されている。そんな現ヤマサ醤油の12代目、濱口道雄氏も業界に革新的商品を生み出していた。それが、ビンでもペットボトルでもない容器に入った鮮度の一滴という商品である。
きっかけは26年前に遡る。ひな祭りのお祝い時に刺し身や手巻き寿司の具材をテーブルに並べていたが、その時お皿に注いだヤマサの醤油を見て驚いた。色も黒ずんでいて、買った時と大きく色が変わっていたのである。ヤマサの醤油は買った当時は赤いのだが、空気に触れると酸化してしまい、色は黒ずみ風味も飛んでしまう。
この状況をなんとかできないかと製造方法や保存容器の研究を行い続けた。試行錯誤を重ねること16年、その方法を見つけることができた。それが、フィルムでできた容器である。この容器は2重構造になっており、注ぎ口に0.002ミリのフィルムを採用している。この薄いフィルムのおかげで、醤油が空気に触れることがなく、酸化を防ぐことができるのだという。
ただ、酸化しにくい醤油を販売することは、現在販売している醤油が酸化しやすいということを宣言するようなものだったが、それが消費者のためであると、販売開始を決断した。こうして2009年に鮮度を保つ容器の醤油を業界に先駆けて世界で初めて発売したのである。
こうして発売された鮮度の一滴は発売半年で100万本という異例のヒットとなった。
そして更に改良を加え、指で容器を押したときにしか醤油がでないようにした。
こうした改良も相まって、業績もほぼ右肩上がりで推移している。2016年は売上555億円と過去最高を記録した。
顧客の声を聞き挑戦を続けるヤマサ醤油
江戸時代から続くヤマサ醤油には特別な営業マンがいる。それが老舗専門の営業マンの存在である。老舗が今日まで生き抜く所以は、伝統を守りながらも客の嗜好に寄り添っているからである。それを聞き出し、自分たちの商品開発に活かすのである。
ヤマサの本社近くにある蔵には、各時代の有名人から送られた手紙が数多く保管されている。その中には、勝海舟や福沢諭吉、陸奥宗光など誰でも知る人物からのものもある。
そんな老舗のヤマサ醤油であるが、その経営は順風満帆だったわけではない。初代の鉄鉱山経営や2代目の質屋、4代目の漁具販売、6代目の金融業などさまざまな事業に手を出しては失敗してきた歴史がある。中でも波乱万丈だったのが、10代目の濱口儀兵衛である。のちに醤油王と呼ばれる人物であるが、若い頃、食材の取引に乗り出し大失敗。一時期親戚に経営を明け渡すほどの借金を抱えるほどだったという。
失敗を恐れず挑戦するDNAは現代表にも受け継がれている。
特に1970年代頃から欧米文化が日本に往来し、生まれたときから醤油以外の調味料、すなわちケチャップやマヨネーズなどがある時代だった。いつまでも醤油が当たり前の時代は続かないだろうと考えていた現代表の濱口氏は1983年に社長に就任し、危機感を背景に新商品の開発に乗り出す。
お肉のクッキングソースやキダチアロエというドリンクなどを次々に販売するが、全く売れない…。苦節15年、1997年に発売した昆布つゆはこれまでにないヒットを生んだ。これまで、梅雨といえばかつおだしが主流だった中で発売した昆布つゆは、さまざまな調味料として使えるとして大ヒットした。いまや年間100億円を売り上げるロングセラー商品となったのである。
このヒットをもとに、調味料メーカーとしてさまざまな商品を開発。中でも近年のびているのが、お弁当などについている小袋入りのポン酢などのオリジナル調味料である。いまや醤油以外の調味料がヤマサの売上高の6割以上にもなるのだという。
さらに、醤油の醸造で培った培養技術を活用し、医薬品の分野にも進出している。中には世界初の診断薬として、バセドー病の診断キットも開発した。
町を救ったヤマサ醤油7代目 濱口梧陵
和歌山県広山町で毎年行われる伝統の「稲むらの火祭り」。これもヤマサ醤油と深い関係があるのだという。ここはヤマサ醤油の当主、濱口家の故郷である。役場の前に7代目濱口梧陵の銅像が立てられている。
濱口梧陵はこの広川町にとって命の恩人なのだという。それは1854年11月5日の出来事である。その日の夕方、大きな地震が襲った。安政の南海地震である。激しい地震のあと、津波が襲ってくると察した濱口梧陵は自身の畑に火をつけ、周辺住民に高台に逃げるように指示した。これによって多くの命が救われたのだという。
さらに濱口梧陵は津波で田んぼや仕事を失った人たちの救済にも乗り出す。それが今も残る広村堤防(全長600メートル)である。濱口梧陵が私財を投じて村人と建設したのだという。
毎年行われる稲むらの火祭りは、先の濱口梧陵の功績を讃えた祭りとして今なお行われ続けているのである。