こんにちは。ひとりで.comです。
2017年11月30日放送のカンブリア宮殿は「苦境の家具メーカーが復活!業界の異端児が仕掛ける独自改革」と題して飛騨産業 社長 岡田贊三さんが登場します。
地方の地場産業の衰退が叫ばれる中で、高いクオリティと常識を打ち破る独自の技術力で成長を続けている老舗の家具メーカーがある。
それが、岐阜県高山市で古くから家具製造を手掛けてきた「飛騨産業」である。一時は輸入家具の台頭により借金が膨らみ、廃業寸前に追い込まれるも、次々に改革を断行、売上高を就任直後の2倍となる50億円にまで復活させたのが現社長の岡田贊三。
常識破りのヒットを生み出す風雲児の手腕を追う。
苦境の家具メーカーが復活!業界の異端児が仕掛ける独自改革
伝統的な高級家具会社の異端児:飛騨産業
最先端の店が集う東京ミッドタウンのとあるインテリアショップで人気の家具がある。座った人たちを驚かせる椅子、それが飛騨産業の椅子である。外見は何の変哲もない椅子なのだが、座る人がそのフィット感にみな感動する。
飛騨産業とはその名のとおり、岐阜県高山市の企業である。飛騨高山は日本の五大家具産地のひとつである。その町並みにも木工の格子づくりなどの家が目立つ。
祭りを盛り上げる山車にも木工の里の技術が光る。木の色を活かした独特の彫刻”一位一刀彫”が祭り客の目を奪う。
木工づくりの飛騨の歴史は飛鳥時代まで遡る。当時の税は穀物などの食糧だったが、飛騨高山では、木材加工の仕事が年貢の代わりとして納められていた。その技術は、世界遺産の唐招提寺などさまざまな歴史的建造物にも充てられている。
その伝統的技術を今に引き継ぎ、顧客を驚かせているのが飛騨産業である。創業97年、そのショールームにはこれまでの伝統的技術を駆使した家具が立ち並んでいる。
飛騨産業 を一躍有名にしたのは、穂高というシリーズの商品である。
1969年の発売以来、リビングチェアだけで60万脚の大ヒットである。木は樹齢150年以上のならの木が使われている。
この穂高シリーズのヒットには、「暮しの手帖」編集長の花森安治さんも大きく影響している。いろんな商品を辛口批評する雑誌の中で
4年間使用しているが快適
と褒め、話題を呼んだのである。その品質の高さから皇室御用達となった。
さらには、2016年の伊勢島サミットにて各国首脳が使った円卓や椅子にも選ばれたのである。まさに日本を代表する家具なのである。
しかし、飛騨産業には苦しい過去もあった。バブル崩壊後には高級家具から客が離れ、IKEAやニトリといった格安家具に人気が集まり、飛騨産業は窮地に立たされたのである。ピーク時には66億円あった売上も、2001年度には29億円と半減し廃業寸前までになったのである。
そんなピンチを救ったのは現社長の岡田贊三さんである。そんな岡田さんの社是は
良いことは即やってみる、悪いことはすぐ辞める、良いか悪いかわからないことはとりあえずやってみる
である。岡田贊三さん曰く
やらない理由を考えれば、百でも千でもいくらでも出てくる。とにかくやってみて効果が出そうであれば時間はいくらでもかけてよいし、予算も出すのでまずはやってみなさい
と社員に伝えているのだという。
規格外の10年保証と卓越した修理の技術
長く使ってもらえる家具だからこそ、アフターフォローの体制も大きく変えた。飛騨産業の保証期間はなんと10年。通常の家具がおよそ1年から3年というから、3倍以上の保証期間である。それも、岡田贊三さんの決断である。
木工職人によると、飛騨産業の家具はゆうに30年は使えるものだという。であれば、10年保証というのは短いくらい、そんな思いで10年保証という他社にはないサービスを取り入れているのである。
飛騨産業には、月に300件〜400件の修理依頼があるのだという。修理の依頼があった家具は、熟練の木工職人が修理にあたる。修理が不可能な部品については新たに作ってしまう徹底ぶりである。
保証外の修理についても購入価格のおよそ3分の1程度で修理が可能となっている。決して安くはないが、買った当時のような家具にまた戻るため、感謝の手紙が絶えないのだという。
地元の企業を救うべく社長を引き受けた岡田贊三さん
飛騨産業の高級家具をお値打価格で手に入れられる場所がある。それが飛騨の家具館アウトレットである。並んでいるのはショールームなどで置かれていた商品である。
このアウトレットショールームでは、通常の価格の半額以下で購入できる商品も多く展示されている。
しかし、このアウトレットも必要に迫られて作られたものなのだという。
1943年生まれの岡田贊三さんは飛騨高山生まれ。大学卒業後、家業の小さな企業を継ぎ中部地方で10店舗のホームセンターに成長させた。1995年に合併話があり経営権を譲渡し、55歳で隠居生活に入った。
しかし、そんな折、飛騨産業は経営難に陥り、借金は30億円に膨らんでいた。そこでやりてと評判だった岡田贊三さんに白羽の矢が立ったのである。
そうして、2000年に飛騨産業の社長に就任。しかし社長になってすぐに我が目を疑う光景を目にすることとなった。それが社内にあった在庫の山である。バブル崩壊後も職人が売れる売れないに関係なく商品を作り続けており、会社は大量の在庫を抱えてしまっていたのである。
そこで岡田贊三さんがまず作ったのが、アウトレットなのである。これによって大量に抱えていた在庫を一掃することができたのである。ただ、アウトレットはその場しのぎに過ぎない。
ここでさらに岡田贊三さんは大改革に乗り出す。そのひとつが古い商システムからの脱却である。以前の飛騨産業は全て商品を問屋におろしていた。そこで小売店との直接取引を仕掛ける。しかし、小売店も問屋との長い付き合いがありなかなか首を縦に振ってもらえなかった。粘り強い交渉のすえ、直接取引に成功したのである。
これを機に生産体制も変更する。これまでの作るだけ作る体制から受注生産に切り替えたのである。こうすることによって、在庫を一掃することに成功するのである。
いまや直接取引する取扱販売店は全国に300店舗、直営店も8店舗にまで増えたのである。
さらに、岡田贊三さんは職人の意識改革にも着手した。それまでの家具業界の常識として木材に節が入っているものは不良品として全て廃棄していた。しかし、これを逆に活用し、節のある自然な商品「森のことば」シリーズとして2001年に販売するに至るのである。
これが、お客さんからも自然の味があると話題となり年間8億円になるほど成長した。
職人の技術を未来に繋ぐ飛騨職人学舎
飛騨産業 は未来に技術を残すべく、若手の育成も始めている。それが飛騨職人学舎である。2年間の全寮制で休暇は盆と正月だけ。携帯電話も募集され恋愛も一切禁止だという。
生徒たちは2年間で即戦力として働ける技術と礼儀などを叩き込まれる。入学金や授業料は無料で奨学金として毎月8万円が支給される。さらに、卒業後の就職先は自由で他の会社に入っても良いのだという。
こうした若手の取り組みが、現役の職人にも「若手があんなに頑張っているのだから…」と良い影響を与えているのだという。