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2018年1月18日放送のカンブリア宮殿は「安くても高品質!100均の王者が登場!唯一無二の薄利多売ビジネス」と題して大創産業 代表取締役社長 矢野博丈(やの ひろたけ)さんが登場します。
「安かろう 悪かろう」は昔の話!今では、「これが本当に100円!?」と目を疑うほど、安くても高品質の品ぞろえで評判の”100円ショップ業界”。
その先駆者であり、業界売上トップを誇る100均の王者が「ダイソー」だ。日本全国で3150店、海外でも26の国と地域に1900店舗を展開し、ダイソーは全世界で5千店舗を越える。そのガリバー企業をたった一代で築いたのが社長の矢野博丈さん。
ヒットの秘密は、究極ともいえる薄利多売と高品質を両立させたことにあるという。景気に左右されず、なぜ成長を続けることが出来るのか?100均の王者、ダイソーの強さの秘密とは…
安くても高品質!100均の王者が登場 唯一無二の薄利多売ビジネス
100円均一の王者ダイソー
東京錦糸町にあるダイソーの店舗。国内最大級の店舗で売り場面積は約1,000坪ほどある。9つあるレジは土日になると連日大行列となる。このお店だけで月間売上は約1億2,000万にもなるという。扱う商品は全部で5万点。14のジャンルに分けて商品が陳列されている。
キッチンコーナーでは、刺身包丁やパン切り包丁など15種類もの包丁が並んでいる。工具コーナーではドライバーや万能ベンチなども100円で販売されている。
ダイソー 錦糸町店で販売される商品の売上ベスト3は…
第1位 | ネクタイ | 100円 |
第2位 | アイロングローブ | 100円 |
第3位 | こだわりのむき甘栗 | 100円 |
ダイソー におけるネクタイの年間販売数はおよそ200万本。実はこの売上点数は日本一。日本のネクタイの売上本数の約2割を誇るのだという。
実はいま、ダイソー が力を入れているのが和雑貨である。伝統工芸の美濃焼きの湯呑みも100円で販売されている。和雑貨のコーナーは外国人にも人気となっている。
ダイソー は究極の薄利多売ビジネスを展開している。本来であれば2割〜3割の利益を得ないとやっていけないが、100円の商品で1円でも利益が出るのであれば100万個売れたら1万円の利益になる。店舗が多く大量に仕入れているからこうした薄利多売ビジネスが成り立つのだと矢野社長は言う。
現在でも毎月10店舗のペースで新店舗を出店しており、現在国内に3,150店舗を展開している。さらに海外にも1,900店舗を構えており合計5,000店舗以上を運営している。
100円ショップの売上高は2位のセリアに大きく差をつけている。
1位 | ダイソー | 約4,200億円 | 5,050店舗 |
2位 | セリア | 約1,453億円 | 1,424店舗 |
3位 | キャンドゥ | 約680億円 | 994店舗 |
仕入れに命をかけるダイソー
広島県東広島市に大創産業の本社がある。朝はラジオ体操から始まる。従業員は約3万5,000人、創業は1977年。大創産業の本社には、1日約20社の製造メーカーが来訪する。商品の99%がメーカーと共同開発を行なうプライベートブランドである。
毎月、700点以上の新商品を開発している。メーカーと相対するのは30人のバイヤーである。ダイソー の根幹を担うスペシャリストである。
バイヤーとメーカーの担当者との買取価格の攻防は10銭単位で行われる。それだけ発注量が多いということになる。
ダイソー に来るメーカーは国内企業だけではない。この日、バングラデシュからメーカーの担当が来ていた。スリッパはダイソー の稼ぎ頭のひとつ。150円以上の価格帯が中心である。今回、バングラデシュの工場と提携し、100円のスリッパを販売するという。
ダイソーとの取引メーカーは世界約1,400社にも及ぶ。それだけグローバルに取引を行っている。売上は常に右肩上がりに増えており、2017年はじめて売上が4,000億を突破した。
大創産業の設立の経緯
矢野博丈社長の父は大阪大学医学部卒の町医者だった。父親は厳しく「勉強しろ、仕事手伝え、勤勉にしろ」と毎日のように怒られていたのだという。
8人兄弟の末っ子として育てられた矢野博丈さん。2人の兄は優秀で医者となった。劣等感をバネに身を粉にして働いてきたという。しかし、そんな矢野博丈さんは苦難の歴史を過ごしてきた。
1963年、一浪の末、中央大学理工学部に入学した。バナナのたたき売りなどで生計を立てて学生結婚をする。卒業後、義理の父の養殖業を広島で嫁いだ。父の教え通り懸命に働くが、借金だけが膨らんでいった。
どうしようもなくなっていた矢野博丈さんは兄に700万(今のお金で1億円)お金をすがった。結局、その場しのぎにはなったものの、3年後に倒産してしまった。もう兄に顔向けできないと矢野博丈さんがとった行動は、なんと夜逃げなどである。新聞配達やちり紙交換など9回も転職を繰り返したがどれもうまくいかなかった。
そんなある日、兄からある一通の手紙をもらった。
東京に行く。ホテルまで来い。
とその手紙には書かれていた。
きっと、借金のことをなじられるのだろうと考えていたが、重い腰をあげてホテルに向かった。
しかし、兄は「みんな心配しとったんで、借金のことは忘れて良いから元気に行きていけ」と言ってくれたのだという。
兄に恥ずかしくない人生を送ろう…と思った矢先、転機が訪れることとなった。当時は日雇い労働で生計を立てていた矢野博丈さん。ふと見上げると、移動販売に人だかりができているのを見かけた。
1972年、29歳のときに矢野商店という移動販売の会社を創業した。滑り出しは上場だった。しかし、ある災難が訪れた。それが放火による火事である。商品倉庫が焼けてしまったのである。
その中で少しだけ残っていた在庫を生活費の足しにしようと商品を道端で並べていたところ、お客さんから「これいくら?」「こっちはいくら?」と聞かれた。それまでの原価表もきっちりもっておらず、
全て100円で良いですわ。
と言って、100円で販売し始めたのである。これが100円均一の誕生である。
もちろん、その頃には「100円なんて安物買いの銭失いよ」という評判をもらうこともあった。そうした経験がよりよいものを安く売りたいと思うきっかけになったのだという。
それから、何度もメーカーと価格交渉を行い良い商品を提供しようと努力し続け、1977年に大創産業を設立し初の常設店を開いた。
社会貢献のためにすすめる矢野社長の取り組み
大創産業の本社では、およそ250人の障がい者が働いている。本社の中で全国の店舗に商品を発送する仕分け作業を行っている。
楽しく働けるよう、月に1回、親睦会を実施している。20年前から障がい者雇用をすすめてきた矢野博丈さんは、これから別のこともすすめていきたいと考えているのだという。
それが、障がい者が働くことができるベーカリーや100円ショップ、介護施設を作ろうと考えている。また、障がい者が描いた絵を使ったカレンダーを制作。その売上金の一部が制作した障がい者に回るような仕組みになっているという。