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2018年4月26日放送のカンブリア宮殿は「創業150年 蒲鉾の価値を次世代に!職人技を武器に勝つ 老舗店の格闘記」と題して鈴廣かまぼこ社長 鈴木博晶(すずき ひろあき)さんが登場。
「蒲鉾と言えば小田原」という評判を打ち立てた、創業150年の「鈴廣」。その商品はすり身魚ランキングで第一に輝き、本店には年間100万人が訪れる。小田原という土地と、蒲鉾にこだわり続ける鈴廣、その強さの秘密に迫る。
創業150年 蒲鉾の価値を次世代に! 職人技を武器に勝つ 老舗店の格闘記
伝統150年、かまぼこで有名な鈴廣
小田原駅から箱根登山鉄道に乗り換えて2駅の風祭駅にある「鈴なり市場」。このお店では、蒲鉾でできた様々な商品が並んでいる。
その中でも女性に人気なのが海山のおーどぶるである。
ワインにあう、色とりどりのおつまみで魚のすり身で出来ている。さらに蒲鉾でできたトミカなどもある。
この鈴なり市場を運営するのが、かまぼこで有名な鈴廣である。ここにある商品はほぼすべてが魚のすり身で出来ている。鈴なり市場のまわりには、何件もの施設が立ち並んでおり、かまぼこの里と称されている。このかまぼこの里には年間100万人もの人が訪れるのだという。
鈴廣の創業は約150年前の1865年、小田原の地で生まれた。この40年で5分の1にまで減少したかまぼこの生産量だが、鈴廣の売上高は100億円にまでなっている。
老舗にあって老舗にあらず
浅草のとあるロシア料理店では、サーモンと蒲鉾のタルタルという料理を提供している。この料理を仕掛けたのは、鈴廣の流通営業チームの安居院正さんである。浅草のさまざまなジャンルの飲食店をまわり、”かまぼこフェア”をやらないかとまわっているのだという。
各飲食店で出てきたアイディアを元に作ってもらったかまぼこメニューで、かまぼこの需要を掘り起こそうというのが狙いである。そこには、外食でかまぼこが出てくる機会が少ない…という鈴廣の危機感が現れている。
年々減り続けるかまぼの消費量。かまぼこで有名な小田原のかまぼこ通りでも廃業するお店が増えてきている。
そもそも、小田原は蒲鉾のおかげで栄えたとされている。15代徳川慶喜もわざわざ江戸から小田原に蒲鉾を買いに行かせたと言われている。
しかし、大正時代に小田原を震源とする関東大震災で壊滅的な被害を受ける。その後立ち直ったかという時期に今度は第2次世界大戦の空襲でまた焼け野原となってしまった。
そんな小田原蒲鉾の危機を救うべく走り回ったのが鈴廣7代目の鈴木廣吉である。戦後の原料不足の中、小田原のかまぼこ組合のために全国をまわり魚を集めたが経営は苦しかった。そんな中、鈴廣を成功に導く跡取りが現れた。それが、鈴木廣吉の長女である鈴木智恵子と婿養子の昭三である。
その発端は、昭三が初めて見たかまぼこづくりの現場だった。手作業で行われる重労働、そして悪臭も放っていた。鈴木昭三は横浜国立大学の応用工学科出身であり、その時の知識を応用して、かまぼこづくりの現場の機械化に着手した。
水分を絞るローラーも自動化しローラー式脱水機を導入。さらに職人技だったミルフィーユ状の成形もかまぼこ成型機を導入して効率化を図った。
ところが、職人肌の鈴木廣吉は、
「手で作らなければうまいかまぼこは作れない」
と反対したのだという。
しかし、鈴木智恵子と婿養子の昭三は改革を続けるのであった。そして、手狭になった本社を、大規模化+ドライブインという形にするために現在の風祭に移転しようと考えた。
ここでも鈴木廣吉は移転に反対した。
「小田原の水が出ない場所でうまいかまぼこが作れると思っているのか」
と。
小田原の水は硬度が高く、かまぼこづくりには最適だった。しかし、移転予定先の風祭ではその水がない。そこで、鈴木智恵子と昭三は風祭でボーリング調査を行い、同じ水質の地下水を発見するのであった。こうして、1962年、風祭への移転を決めたのである。
鈴廣のかまぼこではなく、小田原のかまぼこ
3月下旬、小田原城のもとでちょっと変わった祭りが開かれていた。それが小田原かまぼこ桜まつりである。かまぼこ板を使ってどのくらいの高さに積み上げられるか、といったものや、かまぼこに細工をするかまぼこ細工など、小田原に伝わる伝統的な祭りである。
この小田原かまぼこ桜まつりを運営するのは、小田原にある12件のかまぼこ店である。ライバル同士、垣根を超え、かまぼこを広めるために運営を行ってきた。
実は、7代目の鈴木廣吉の時代から、小田原のかまぼこ屋は手を取り合ってきた。鈴木廣吉さんは、当時から
鈴廣ではなく、小田原のかまぼこを作れ
とよく社員に言ってきたのだという。自分だけでなく、みんなで生き残るためのかまぼこ作りなのである。