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2018年5月3日放送のカンブリア宮殿は「京都オンリーワンのものづくり! 奇跡の老舗かばん店の全貌」と題して一澤信三郎帆布店主 一澤信三郎(いちざわ しんざぶろう)さんが登場。
京都オンリーワンのものづくり! 奇跡の老舗かばん店の全貌
ネット販売も卸販売もない、直営店のみで販売する一澤帆布
浄土宗総本山のふもと近くにある人気店。そこはカバンの専門店で特別な布で出来ているという。この店の看板商品が道具袋というトートバックである。色やサイズのバリエーションも豊富でさまざまな使い方ができる。こうしたカバンを販売しているのが一澤信三郎帆布である。
最近、人気なのが、下記のランドセル風のリュックサックで、昭和20年代から形が変わっていない。
一澤帆布の創業は1905年。曽祖父の一澤喜兵衛が頑丈な袋を販売し始めたのがきっかけである。屋号や商品名を入れて作られる袋は、広告塔の役割を果たした。
戦中、戦後に物資の買い出しなどで丈夫な一澤帆布の袋は重宝した。1960年代になると登山ブームが到来し、一澤帆布のキスリングは一流のアルピニストの証とも言われた。
さらに、若者雑誌にも取り上げられるようになりおしゃれなデザインのバッグの製造も開始した。
一澤帆布のバックは創業当初から変わらず手作りで行われており、現在およそ70名の職人の手によって作られている。
帆布とはその名の通り、船の帆に用いられている布のことである。これによって丈夫なカバンができあがる。しかし、通常の布と異なり、その成形や縫製には熟練の技が求められる。
そんな一澤帆布には、様々な企業からのコラボレーションの依頼が舞い込んでいる。高島屋の創業記念のバッグや同志社小学校のランドセルなどもそのひとつである。
一澤帆布の商品は京都の1店舗のみでの販売となっており、ネット通販もない。それが希少性を高めている。ここでしか買えないため、海外からもお客さんがやってくる。
一澤帆布では、残業は一切なく17時30分で終了である。さらに、子どものいる社員は15時もしくは16時に退社できる。また、定年制度もなく、最高齢の職人さんは76歳にもなる。
父の死後、実の兄と経営権を巡って裁判沙汰に
一澤信三郎帆布では、購入したカバンの修理も受け付けている。毎月およそ100個ほどの修理依頼があるという。愛用のカバンの修理は究極のオーダーメードと言える。思い出がたくさん詰まっているカバンの修理は決して失敗ができない、そういった意味において、職人の腕の見せ所でもあるのである。
現店主の一澤信三郎さんは、1949年一澤家の3男として生まれた。大学を卒業後、朝日新聞社に入社した。それから10年後、父親に呼ばれ家業に戻った。
当時、一澤帆布は従業員10名ほどの零細企業で、化学繊維製品に追われ、廃業寸前の状態だった。1983年、社長に就任した一澤信三郎さんは一般の人にも使ってもらえるようにするために、道具袋からの脱却が必要だと考えた。それがファッション雑誌の目に止まり、
2001年、父の死と相まって兄と経営権を巡って裁判沙汰となってしまったのである。というのも、父の遺言書で一澤株の67%を三男の信三郎に譲渡する旨が記載されていたが、その3ヶ月後、別の遺言書が出てきた。
その中には、長男に80%の株式譲渡を行うと記載されていたのである。通常、遺言書は後から出てきたほうが優先されるのであるが、長男の遺言書にはおかしな点があり、裁判所に訴えた。
しかし、その提訴は退けられてしまい、長男に経営権が移ったのである。これにより、一澤信三郎さんは社長を解任され、廃業も考えたという。
それから、残った社員や職人たちとともにいま一度一澤信三郎帆布を立ち上げようということになり、ゼロからの再出発を決断したのである。これまでと同じカバンは作れない…そこで新作を一から作り直すことにしたのである。
さらに、一澤帆布を応援する会まで発足し、全国からカンパが集まった。そのカンパを使って新たなお店の開店の告知を出すと、オープン初日から大行列ができた。
また、3年後の2008年、長男側の遺言書は偽物とする判決が起きたのである。